---第22号特集記事---


「がんを生きる「がん患者学」−その後―」

柳原 和子氏(ノンフィクション作家)
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柳原です。

今日、乗ってきた総武線は、今年亡くなった船橋に住むある患者さんを自宅に見舞った線です。まず、この方のことを一つの典型としてお話したいと思います。
 
彼女は3年前、胸水が上がり病院に行ったけれど、そこでは何も発見できず、「婦人科の検査をしよう」という決断が下るのに2ヵ月かかったといいます。がん研に行ったときにはすでに4期の卵巣がんで、医師から「1年はもたない」と言われ、抗がん剤治療を10回程度行ったあと手術、その後さらに抗がん剤治療をするということになりました。
 
術前の抗がん剤治療が終わったころ、おととしのことですが、NHKで代替医療を取り上げた番組が三夜連続で放送されました。私は、木を抱きしめたり、落ち葉を拾ったりしながら自然療法で治った、みたいなことを言っていないつもりでも、医者にたて突きながらいろいろ言っていることを聞いて、「代替医療で治った」というふうに伝わったらしい。あらゆるがん関係のメディアに私の顔が出ている。それをがん研の病棟で見ていて、「自分と同じ症状だったんだ。柳原さんは何か治るための秘訣を知ってるんじゃないか」と、NHKを通して手紙をくださいました。
 
2ヵ月後に私の手元に届き、お電話をしました。病気のことは、お母さまにも職場の友だちにも、恋人にさえ知らせていない。私と同じ年です。病状はまるで私と酷似しているんですが、医者の残酷さというものを5時間ぶっ続けで話すんです。「どうしたらいいか教えてほしい。治りたい」と。
 
『がん患者学』というのは、私ががん患者でいた2年ちょっとの間に読みたかった本を自分で作ったものです。「生きたい!」と思っていた時期に……。医者はこういうことを言ってくれない。そのことを聞きたい。がんというのはこういう視点で考えればいいんじゃないか。あらゆる形で読みたかった本を自分で作るしかない、と思って作った。それを読んで彼女は、「やりたいんだけれども、これはできない、あれはできない」ということがあって、何度も病院に入院する。
 
10回終わって医師は「あなたに抗がん剤は有効じゃなかった」と言いました。彼女は腫瘍マーカーの値を全部折れ線グラフにしていて、そのグラフが微妙に下がっていってるんです。「こういう下がり方はダメなんだ」と医師ににべもなく言われる。「残り1年かもしれない命をどう過ごすか考えてください。治療は過酷なものが続くし、それ程有効ではない。だから、クォリティー・オブ・ライフを考えると、僕は抗がん剤をこれ以上続けるのは良くないと思う」と追い打ちをかける。彼女にしてみれば「これまでの10回の治療は一体何だったのか。もっと前に言ってくれればよかった」と思ったんですが、医師の気分を壊さないように笑顔をつくりながら「でも先生、治りたいんです」と言う。すると周りの看護婦さんや2人の若い研修医を見回して、カーテンで仕切られているだけの外来で、「世界にあんたのようながんを治せる医者はいないよ。なあ」と言ったそうです。
 
「先生しかいない」とすがられていることが恐くてそう言ったのだろうけれども、彼女の目にはそうは映らない。がん患者にすれば、それは当然のことです。それを多くのメディアや健康な人々は、先生の方を理解してしまう。そして美談に仕立て上げる。医者もたいへんで、家族のなかで悩んでいる姿を見せたりする。患者の側の悲しみは、「可哀想な人」として今まで処理されてきたんです。だけど、「何故? あのもの言いは何だったの? 先生のその言い方が私を苦しめた」と言う彼女の“目”というのは正当なものだ、とそのとき私は思いました。
 
その後、彼女は、ある代替医療の病院に3ヵ月入院しましたが、やはりがんを消したいと思い、またがん研に戻りました。若い医師が、がん研を出る際に「僕はあれだけの下がり方でも、効いてないとは言えないと思いますよ。抑え込んでると思いますよ」といった、その言葉を頼りに。
 
若い先生についてプロトコルどおりやりました。タキソールも加わったので髪の毛も抜けて。今年の1月、お見舞いに行きました。ある大きな会社の秘書課長までやって、ひとつの本を作って、「素晴らしい生き方をして輝いていた自分」ということをよくおっしゃる方でした。「もう一度輝きたい……」と。
 
がんを患って私が一番最初に思ったことは、「安らかに死にたい」ということでした。でも、「あわよくば生きたい」。この2つの間を行きつ戻りつしていました。彼女は「あわよくば生きたい」ではなく「絶対生きたい」という希望のなかにいたんです。
 
彼女は、抗がん剤を3回終わって結果を聞きに行きました。若い医師は転勤し、また元の医師に戻っていました。4時間くらい外来で待たされ、いよいよ番がくる。医師は「ダメだ」と言う。そしてその時に「惜しかったよなあ。あの3ヵ月、ヘンな病院に行かなければ、もしかしたら良かったかもしれない」と言った。彼女はもうニッコリ笑うしかなかった。カーテンを開けて出て行ったとき、外にいた患者さんが皆恐そうな顔をして、自分を眺めていた。
 
私はその話を電話で聞いたとき、もう全身が震え、「絶対に許さない!」と思いました。
 
彼女の遺言に近い言葉は「とにかく希望がほしかった。治らなくてもいい。希望をくれる言葉があればよかった」――。
 
このような体験が、『がん患者学』を出してから実はいくつもあるんです。そういう患者さんたちと出会って感じて、しかも今私が何を考えているか、ということをお話したいと思います。ですから、ちょっと悲しい話から始まりました。



人間のスピリチュアルな部分を摩耗させて発達した、科学としての医学

ここに小鳥を1羽連れてきてるのですが、がんの治療が終わった時に文鳥を2羽飼い始めました。文鳥の寿命は5、6年、長くて7年と聞いたので、「こいつらと一緒に私は生きるぞ!」と思ったんです。私を絶対的に待っていてくれる生き物が必要でした。それは私の弱さなんです。 私は去年、テレビの取材でアマゾンをまわってきた後、腹水が上がりました。1月17日に読売のシンポジウムのため東京に来て、翌日帰ったらメスのお腹が膨れて死んでいました。愕然として姉に電話をしたら、「あんた、治るよ」と言われました。身代わりになってくれたんじゃないか、と。
 
今言ったことは他愛もないことなんですが、これを医療の言語でいうと、スピリチュアルということです。つまり、奇妙な符合の一致をみる、感受性の鋭さみたいなものが人間には備わっていて、そういう人間の力が言葉や知識や科学情報を持つようになり、鈍感になっていってる。特に医療の場では著しい。私たちが病院にいて感じる、なんとなく寂しく辛い思いは、ナイチンゲールの時代よりも、私がずっと取材していた野戦病院の感じよりもはるかに深まっている。人間が人間である部分が、どんどん摩滅していっている。
 
人間が動物と違う理由は、2つあると思うんです。1つは道具を持ったこと。もう1つは言語をもったこと。道具をもったことの極致に、医療・医学がある。言葉も、同時に豊かになっていかなければいけなかったのに、医療の世界では非常に貧困なままで残っている。このことについてもお話したいと思います。

自分のがんを決定づけた母のがん

母は私が16歳のとき、卵巣がんが見つかりました。私は医療に対してある偏見をもっている人間です。最初「卵巣のう腫」と言われて入院しました。開けてみたらメチャメチャに広がっていて、「約3ヵ月から半年です。何もしません」と言って閉じられてしまいました。あと半年を何とか隠し通そうとしましたが、病を持った人間というのはとても敏感なんですね。人が慰めのためのうそを言ってることも、感じるわけです。ある夜問い詰められて、母は結局がんだということを知る。母は10日間くらい泣き暮らしたあと、その世界では有名な病理医で、がんの研究者だったいとこのところに行きました。その病院で徹底した治療を受け、4年半生きました。私は、その体験から2つ目の病院でOKということがあるんだ、病院というところは選ばなくちゃいけない、ということを知ったのです。
 
私が20歳のときに母が亡くなりました。あるとき、枕元輸血をしてもらおうと家族が集まり、医師に頼みに行きました。その医師が母の枕元で「こんなことやっても無駄なんだけどな」とおっしゃったんです。私の心はすごく傷つきました。
 
今思えば、治ろうとしているときの母に対しては、その先生は最高の先生だった。打つ手がなくなると、外科医というのは習性として逃げ始めるんですね。彼らは治すことが好きで外科医になって、力が及ばない状況になった時には見捨てるという仕事上の訓練をしているわけです。野戦病院で見ているとよく分かるんですが、死んでいくと分かっている者を切り捨て、生きる可能性がある者に手当てする。優秀な医者になるための自己訓練としてやっていくんですね。外科医療の究極の姿がそこにあるわけです。
 
日本の場合、がん患者は大体外科医が担当しますから、「なんて残酷な」というところに陥るわけです。そのことがすごく私のなかで引っかかっていて、解剖室から出てきた母に私は誓いました。「お母ちゃんと同じ年齢で、同じがんになってみせるわ!」と。そしたら本当にそうなってしまった。既に私のがんの由縁というのが、自分のなかでカッチリとあったわけです。

イメージとしてのがんと闘っていた日々

最初、総合診療内科に入りました。ここでは1人の医師が2時間くらい、その人の生育歴から医療に対する考え方までを聞いていきます。6人の医師が続き、全部で10時間くらい繰り返しあらゆる角度で聞くわけです。彼らのほとんどが、母親の病歴を聞いたとたんに「卵巣がん」と思ったと。

「卵巣がん」ということになって婦人科に行きました。一切何の問診もなく、あらゆる検査が始まる。私の場合は胸に13リットル、腹水も7リットルくらい。すごい量の水を全身に溜めていたわけです。
 
総合診療内科の段階では、私も母の問題や医療に対する考え方などいろいろ言えたんですが、胸水を抜かれ、抜かれた途端に咳き込み、真っ青になっていた顔が明るくなったりさまざまなことがあったときに、自分のメンタリティーが変わるんですね。なにか奴隷根性のようになって、「先生お願いします」という気持ちになって。
 
今の症状を聞けば、4期・末期と思うでしょうが、実は末期じゃなかった。2期でした。水の中にがん細胞が出なかった。腹膜播種の状態だったけど、婦人科の場合は腹腔内に限局されていれば2期ということになる。リンパにも転移はありませんでした。しかし、「2%残した」と医師が言ったんです。「取り切れませんでした」と。実はそれは抗がん剤の効果を見るために残したということも含めて、後で説明を聞きました。以来、体の中にがんがあるのではないか、というイメージに取りつかれてしまいました。
 
「がん」というのはそういう病なんです。イメージでやられてしまうところがある。通常の暮らしができるということを基準に考えれば、本当に苦しむのは最後の2、3ヵ月だけなんです。それ以外はイメージの中で自分たちがつくり上げた病と戦っている。そしてイメージは膨らみ、トラウマとなって、チリっと痛くなると、「アッ、がんだ!」と思う。それが2、3年続き、あらゆる恐怖の中にちぢこまる日々を送る。そのことを今日はもっと問題にしていきたいと思います。



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