---第16号特集記事---


氣 功 の 話
百々雅子氏




人間にはバイオリズムがありまして、それも季節やその日の天候によっても 異なります。ですから、氣功をするのに一番いい時間帯というのも自ずと決まっ てくるわけで、今日はちょっと遅いかなとも思われますが、その分ラクな姿勢 で、気楽に聞いていただけたらと思います。

「氣功とは何か」との質問をよく受けるわけですが、そんな時「やってみない と難しい」ということをまず申します。氣功はその歴史が長い分、理論と実践 が多様に変化・発展してきているため、それを一言でまとめるのはむずかしいも のです。

「早く、早く」と、何かに追われているような現代社会が私たちに与える影響か ら逃れて、「早く、手短かに教えて欲しい」というはやる気持ちを押さえてい くところに氣功の精神があるのです。ですから今日の私の話も、皆さんが次第に 心地よく居眠りしたくなるような感じになっていただけることが効果のある “氣功的”な話し方で、癒しの時間になるということです。

私が氣功を始めてから13年になりました。今では生活のなかにすっぽり 入っておりますが、実は私も改めて「氣功って何?」と聞かれると、「これこれ こういうもの」と断定できるものはなく、その都度、質問された方がどういう 立場で訊ねられているかということをまず考えてからお話しすることにして います。それで、今日は「α」という場での氣功ということになります。




「生と死」に対するこだわりから解放されること

「α」では「生老病死」を考えることが大切なテーマになっていますが、 今日は「死」というところから話しを始めたいと思います。

氣功は中国で生まれましたが、インドの古い思想である仏教が、中国に 入った形での仏教や中国を起源とする儒教・道教が混在して氣功の思想 的屋台骨を支えています。

ですから、現在でも本格的な氣功師というのは、学校へ行って学んだり インターネットで情報を得る、というのではなく、個人的に仏僧や儒教の 研究者などの門をたたいて教えを乞い、師から学んだことに自分の考えも 織り交ぜて、「口伝」という古くからの方法によって、責任をもって自分が 選んだ特定の次世代にその奥義を伝えています。

しかし、実際にこうした方法で思想的背景を固めている人は少なく、日本 では氣功と称して中国の体育大を出た人が体操のような形で、症状によっ て練習すべき決まった形を教えることが多いのですが、これなどは氣功に 対する浅い理解の例といえるものです。

私自身は、上海出身で現在三鷹に住む丁治紅先生に口伝で教わったことを、 今、皆さんに情報公開してしまっていますが、こうして伝えながら自分なり の「氣功とは何か」という考え方ができたところで、やっと半人前になって いくのかなというふうに思います。

氣功は古代の思想に裏打ちされているといいましたが、形・呼吸法などの 方法以外に思想的なものは奥が非常に深いわけです。中国の考え方では 「中庸」が重んじられます。やりすぎてもやらなさすぎてもいけない。です から私の話も聞き過ぎず、聞かなさ過ぎずに聞いていただくとちょう どいいと思います。

本題に戻ります。「死ぬ」ことに対する恐怖は誰しもがもっており、 それから解放されたいと思っているわけですが、死は「生きている」から 生じるわけで、自分の生まれる前、生きていなかった時代のことを考えれ ば決して怖くはないわけです。このように「生と死」は表裏一体だと思うの ですが、そのこだわりから解放されることが氣功なのではないか、という ふうに捉えてみたわけです。

「解放される」とはどういうことなのかは、やってみなければなかなか難し いところなんですが、とりあえず「生きたい・死にたくない」を一つの欲望 と考え、その欲から解放される方法が氣功にはあるというふうに考えてい ただいたらいいかと思います


今・ここ」に集中する

具体的には、氣功では「今・ここ」に集中するわけです。一瞬先でも 前でもない「今」、私はここに皆さんと一緒にいてお話しをしている、皆 さんは聞いていてくださる、こういうことなんです。「ここ」に集中す るというのが氣功の精神であり技術なのです。

例えば、テレビなどで見るアフリカのサバンナの様子なんですが、 草食動物がすぐそばにライオンがいるのに悠々と草を食んでいます。 ライオンが「食うぞ」というしぐさをしたとき初めて逃げ出しますが、 捕まって噛みつかれそうになったとき、最初は抵抗するものの、一度 「ガブッ」とやられると、結構あきらめていくような気がするんですね。 これは私の先入観かもしれないんですが、この「瞬間を生きる」という意味 で共通するものを感じているのです。

「今、ここ」に集中する時間をもつということは、その瞬間自分の 体と心を自分で抱え込んでいるということになります。確かに、練習は 一人でやる場合もありますが、「α」に来たときは何人かでやっていますから 各自が自分を支えると同時にお互いが支え合う「場」もできているのではない かと思うわけです。

磁力の強いところを磁場といいますが、氣功では気の力の強いところを 「気場」といいます。気場は意図的に作り上げるのではなく、それぞれが自分 に集中していくときに、お互いの感覚が交じり合って「交感の気の場」がで きるわけです。これは時折偶然にできるのではなく、いつも必ずできるという のがいいところで、練習しているところへ第三者が入ってこられたとき、 「何か不思議な雰囲気がある」とか「妙だな」と感じられると思いますが、 そのときそこに気場ができているということです。

それぞれが自分に集中することで、周りにいる人との共感の場ができる ということは矛盾していると思われるかもしれませんが、現実にできるとい うことです。人間は、他の人に「好き」とか「嫌い」とかいろんな感情をも ちながらも、共に生きています。ですから、そうした感情をすべて捨て去り、 「今・ここ」に集中すると、お互いの生命の力が共感・共鳴し合おうとする 「場」が生まれると思うのです。これが永遠に続けば戦争もこぜりあいも起 きないわけですが、国や人間個々には欲望や利害関係がありますからそうう まくはいきません。

しかし、少なくとも、「瞬間」という時間で捉えたときにはそれさえも可能 であると思うわけです。「今、ここに生きている瞬間」「氣功をしている瞬間」 は大げさかもしれませんが、「永遠の時」につながっているということを、私 は常に感じているのです。

言葉では説明しにくいのですが、例えば、富士山などでご来光を見るとき、 ほとんどの人が手を合わせたり胸を押えたり、昇る太陽に見入るなど、さまざ まな形で感動を表現しますね。「自分を忘れるほど心が動く」という瞬間で、 これも永遠に通じる時間といえるのだと思います。


氣功をしている“時”は、このご来光を見るときと似ているのかもしれません。 また、いろいろな個人的体験があって、それでジーンとなったということがわ ずか一瞬であろうと、やはりそれは思い出に残ることですし、残る分だけ永遠 につながっていくのだろうと思います。




「生きたい」という欲望を生かしていく

一般的な意味で生と死から解放されるのが氣功だといいました。 「欲望から解放される」ということですが、ではその後どうするかという問題 が生じるわけです。「生きなければならない」そして「生きている限り死なな ければならない」という現実のなかで、「生きていきたい」という欲望が再び湧 いてくるのです。

私も大病をして、生きていられるか分からない時期が2年ほどありました。 「とにかく生きたい。でも死んだ方がラクかもしれない」と思った次の瞬間、 また「生きたい」と。そんな繰り返しのなかで、この欲望を氣功によって何と かしたいという気持ちが出てくるわけです。

一旦放棄したものをもう一度取り入れ直して「生きたいという欲望を生かして いく」方法が氣功にはあって、わかりやすい例として「呼吸」があげられます。

「自分が生きている」あるいは「隣りにいる人が生きている」と感じるのは、 「生きる」という言葉と同じ音をもつ「息」すなわち呼吸なんですね。ふだんは 「息をするから生きている」というようなことはあまり考えずに生活しているわ けですが、「息を吐ききれば(呼)、必ずスーと息が入ってくる(吸)」ということ の繰り返しで呼吸しています。この息を使って、氣功は私たちに、新たな「生き る」という希望を与えてくれているのですね。

呼吸をもう少し考えてみます。私たちの周りを包む空気をただ酸素を取り入 れるためだけのものとして捉えるのでなく、ふだん無意識に行っている呼吸を 意識的にしてみると、空気ではあるけれども、大地や天、さらに広大な宇宙と のつながりまで広げて考えてみますと、息を吐くときは自分が宇宙の中に溶け 込んでいく、吸い込むときは宇宙をも吸い込む、そんな感じにも受け取れるわ けです。ですから、「α」の氣功教室は、お互いが「気の交感」をしながら同 時に宇宙とも交っているわけです。

「息を吐くとき邪気を出す」というようなことをいいますが、「気」には 邪気と正気があります。私達は疲れたとき眠りますが、その時、体も心も邪気 を吐き、宇宙の正気を吸い込むことでガス交換をしてもらう、そういうふうに 呼吸を捉えています。

さらに氣功には「三調」、これはヨガでも使いますが、「調身・調息・調心」 というものがあります。最初に体。動作があり、動作で身を整えていく→息を 整える→心が整っていく、という流れですが、形から入って呼吸を整え、さら にイメージの世界も整うということで、これによって氣功が単純な呼吸法では ないということが分かっていただけると思うのです。

整理してみますと、一つには「生きたい。死ぬのはイヤ」という生死に対す る欲望や恐怖から解放されること、そのうえで「新たに生きるという欲望を生か していく」――そういう二つの力を氣功はもっていると思うのです。



氣功的「積極的生き方」とは

私が13年前に日本に来たばかりの丁先生に教えを乞うたとき、私の病は まだ癒えていませんでした。

「生きたい」という欲望を氣功の力に頼り叶えたかったわけです。 筆談を交えながら教わったなかで、印象深く、いつまでも記憶に残る言葉が ありました。

「生きたいという欲望を捨てる」というのは、一見いい考え方で、「欲を 捨てたら気楽に生きられるだろうし、欲は汚い」と思いがちですが、先生は、 「欲望を捨てるのは消極的な対処法だ」と言われたのです。さらに「欲望を 一瞬一瞬叶えていけばよい。そして、叶えられたもの、得たものを他の人に 分け与える。これが積極的な生き方である」と言葉を継がれたのです。

病身の私は、「こんな体なのに、他人に与えろとは何と酷な。私は生きたい。 もらいたいばかりである」と言っていました。先生は、「ゆっくり考えていくよ うに。積極的に生きる方がどんなに心地よいものなのかが分かるように、少しず つ命を延ばしていって、寿命をまっとうできるようにすればいい」と静かに話さ れました。

すぐに理解できることではなかったのですが、氣功を続けるなかで少しずつ 「そういうことなのかな」と思うような時間をここまで積み重ねてきたわけ です。氣功をやっていくことによって、「生とは何か」「死とは何か」という質問に 対する絶対の答えは多分出ないと思いますが、やってみることで考えるヒント となるものは得られると思います。

今生きている自分を、心と体ごと抱えて、それを慈しむことができる、 大切にすることができる、愛することができる、というようなことがあると 思うんですね。しかも、その灯火は独りで灯していてはつまらないのです。 仲間がいて、倫理あるいは道徳律に拘束されて分け合うというのではなく、 ようやく灯った命の灯火を、仲間と共に灯しあうことで「お互いに生きている」 という共感が得られるのではないかと今は考えています。

「α」には「支え合う会」という名がつけられていますが、氣功の場もまた、 「支え合う人の集まり」なのです。命の灯火を氣功をやるごとに少しずつでも灯 して、それを分け合えたらいいと思っている、そんな段階です。





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